宿駅「竹橋」

当時の面影を色濃く残す宿駅「竹橋」

当時の面影を色濃く残す宿駅「竹橋」

 歴史国道「北陸道」の出発点である竹橋(たけのはし)村は、1615(慶長20)年に加賀藩から交通と物資運搬の拠点に指定された宿駅(しゅくえき=宿場)として栄えました。倶利伽羅峠への中継宿として格付けされた竹橋宿には、本陣(ほんじん)や旅籠(はたご)を始め、物資を輸送する伝馬問屋などがありました。1183(寿永2)年の倶利伽羅源平合戦の際は、7手に分かれた木曽義仲(きそ・よしなか)側のうち、樋口次郎兼光(ひぐち・じろうかねみつ)が平家の後ろに回り込み、この竹橋から倶利伽羅に攻め込んだとされています。
 江戸時代には加賀藩の参勤交代の街道として、道路の拡張や松並木、一里塚の設置など、本格的な整備が始まりました。近世末期の幕末から本陣に指定されていた七野屋(しちのや=細川家)では、前田亮麿(まえだ・すけまろ)や前田家へ嫁いだ溶姫(ようひめ)が休憩したという記録(細川家文書)が残っています。七野屋は近世後期より酒造、醤油業、金融業を営み、1833(天保4)年以降、竹橋宿全体を統括する伝馬肝煎(でんまきもいり)と算用聞(さんようぎき)も兼ねました。同家の屋敷は残念ながら、1883(明治16)年5月の大火で焼失し、屋敷跡には1887(明治20)年の道標(どうひょう)が残っています。
 近世初期の本陣に指定され、後に酒造業を営んでいた酒屋家の家屋も老朽化のため取り壊され、跡地は現在、さら地になっています。しかしながら、当時の面影を色濃く残す街道沿いには、倶利伽羅峠の沿道から移された三十三観音のうち、1体が道端に安置されています。
宿駅:街道沿いの集落で、旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を集めておいた宿場のこと。
前田亮麿:加賀藩13代藩主前田斉泰(まえだ・なりやす=1811〜1884年)の9男として生まれ、2歳で前田家から越中城端善徳寺に入り、第16世住職達亮となったが、4歳で亡くなった。
溶姫:加賀藩13代藩主前田斉泰に嫁いだ11代将軍徳川家斉(とくがわ・いえなり)の21女。東大赤門は、溶姫婚礼に伴い、本郷の加賀藩上屋敷に設けられた門として有名。
伝馬肝煎:旅客や荷物を宿駅ごとに馬と人足を伝馬問屋で交代して運ぶ制度「伝馬制」において、馬方(うまかた)を監督し交代を円滑にする役目を担っていた村役人。
算用聞:会計監査を担当した村役人。

所在地 〒929-0426 石川県河北郡津幡町字竹橋
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アクセス IR津幡駅から「津幡駅前」交差点を右折し、県道59号線に入ります。「白鳥橋詰」交差点を右折し、「浅田陸橋」を越えると、「浅田」交差点に出ます。そこを左折し、県道215号線を進みます。「竹橋」交差点を過ぎ、次の三叉路を右折すると、「竹橋宿」に入ります。そこから集落の真ん中を、歴史国道「北陸道」が伸びています。七野屋屋敷跡の道標は、沿道右側にあります。街道半ばにある三叉路の左角に、酒屋家屋敷がありました。さらに街道を先に進むと、右側に「三十三観音」の小さな祠が建っています。



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