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津幡町河合谷地区の牛首(うしくび)区にはかつて、倶利伽羅源平合戦に敗れた平家の落武者が開いた願清寺(がんしょうじ)がありました。当時、村を流れる木窪川(きのくぼがわ)を見下ろすように建っていましたが、1841(天保12)年に金沢の北間村に移転しました。同集落には、今でも願清寺の末裔や檀家が住んでいます。
その昔、牛首に源平合戦から逃れた平家の一将(いっしょう)に「泉某(いずみ・なにがし)」という方がおいでたそうです。この方が一門の供養にお寺(真言宗)を開創し、願清寺というたそうです。
後に、真宗に改宗して嘉永年間まで存在し、故(ゆえ)有って北間の人に売り渡すことになったそうです。でも、明治の半ば頃までは、支坊として泉様縁(ゆかり)の子孫が管理しておられたそうです。その後、瓜生の慈雲寺(じうんじ)へ入られたそうです(河合谷地区の伝説「泉様と願清寺」の話より引用)。
津幡町史によると、「牛首の崩れ」と呼ばれる地内には、「泉某」がその所有する財産を埋め隠した跡と伝えられる横穴があるそうです。
津幡町には、平家伝説が数多く残っています。同地区の木窪(きのくぼ)区や津幡地区の通称「平谷(へいだん)」、英田(あがた)地区の菩提寺区も、平家の落人が村の開祖と伝えられています。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、木曽義仲(きそ・よしなか)に敗れた平維盛(たいらのこれもり)がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされています。