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津幡町河合谷地区の瓜生(うりゅう)区には、金山にまつわる伝説が残っています。慶長年間(1596〜1615年)に村の奥地、黒岩地内に金山が発掘され、今もあちこちに穴跡が残り、それぞれ何匁山(なんもんめやま)とか何番山と呼ばれています。また、谷間には砂金を採取した石臼(いしうす)が点在しています。
今から200年以上も昔、加賀藩の金山が宝達山の麓、瓜生の山奥にありました。藩主から採掘を頼まれた祖左右衛門(そうざえもん)は、手下を大勢雇い、連日「金」掘りに励んでいました。この金山からは毎日ちょうど十八匁(じゅうはちもんめ)の金が採掘されたところから、「十八匁山」と呼ばれるようになりました(一匁=約3.75グラム、小判一両の60分の1)。
また、小雨の日に突然、洞穴が崩れ落ちて数人が生き埋めになってしまいました。それからは、雨の日になると「助けてくれ、助けてくれ」とかうめき声が聞こえるようになり、別名「なげきの山」とも呼ばれました。
ある日、祖左右衛門の妻ヤヨが弁当を運んでいた時、ふとした出来心から「もっと多くの金が出るとよいが」と呟いたところ、次の日からは掘っても掘っても土ばかりになってしまいました。そのため、祖左右衛門はお殿様から強く叱られて、とうとう島流しにされたそうです(河合谷地区の伝説「十八匁山」の話より引用)。