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津幡町河合谷地区の上河合区だけに伝わる「牛舞坊(うっしゃいぼう)」は、倶利伽羅源平合戦に徴用された牛の供養が起源といわれています。この地区では遠い昔、牛は神仏または神仏の使いとして崇められる風習がありました。
1183(寿永2)年、倶利伽羅が舞台となった源平合戦で、木曽義仲は世に名高い「火牛の計(かぎゅうのけい)」で平家に奇襲をかけました。その際、近隣の農家から牛が駆り集められ、この地域からも牛が問答無用で徴収されました。農家にとって家畜の牛は大切なものでしたが、戦のために徴用を余儀なくされました。農民たちは悲嘆に暮れるばかりでしたが、牛は帰ってきませんでした。
農民たちは牛の冥福を祈るために僧に供養を頼み、僧と農民たちが藁(わら)で形作った「牛」を引きながら舞ったのが、「牛舞坊」の始まりだと伝えられています。昔から雄牛のことを「ぼう」といい、坊とは坊さん(僧)で、僧と農民(男)がいっしょに舞ったことから「牛舞坊」といわれています。農具の「箕(み)」を牛頭とし、胴体は獅子舞用の蚊帳を用いて棒振りとともに舞い踊る姿には、わが子のように慈(いつく)しんできた大切な牛に対する鎮魂の念と地区民の平和への祈りが込められています。毎年行われる上河合区の秋祭りで、この舞いが披露されていました。
河合谷ふれあいセンター「祭事の館」で再現、展示されています。