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広済寺の聖徳太子像

ページID:0006444 更新日:2025年2月26日更新 印刷ページ表示

津幡町英田(あがた)地区の領家(りょうけ)区にある広済寺(こうさいじ)には、聖徳太子にまつわる伝説が残っています。現在は修正会(1月1日)と太子御忌(たいしぎょき=3月21・22日)にご開帳があり、この聖徳太子像を見ることができます。
その昔、弘法大師(こうぼうだいし)が石動(いするぎ)山を越えた時、竜燈(りゅうとう=神社に捧げる灯明)が古い松にかかって、如来様の姿が雲の間に現れました。そこで、太師はお堂を建て、大日如来(だいにちにょらい)を安置して、2年間そこに滞まり、その間に聖徳太子2歳の像を彫られたといわれています。
1584(天正12)年、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が能登の末森城攻略に敗退しての帰途、広済寺を焼き払ったにもかかわらず、焼け跡を探してみると、太子の木像には燃えた所は少しもなく、微笑んで立っておられたそうです。
また、太子像を金沢へ移したところが、五穀(米・麦・粟・豆・黍または稗のこと)が実らなくなったので、村人たちが本山・本願寺に訴えて太子像を村に返してもらえるように願い出たところ、豊作が続いたそうです。
ある時は、悪さをする者が太子像を盗み出して一晩中走ったけれども、夜明けの鐘に驚いて自分のいるところをよく見ると、御堂の前であったので恐ろしくなって、太子像を捨てて逃げ去ったそうです(英田地区の伝説「聖徳太子像」の話より引用)。
一説によると、この聖徳太子像に順徳上皇(じゅんとくじょうこう)にまつわる伝説も残っています。順徳上皇が佐渡に流される途中、大しけに逢った際に、弘法太師が彫ったこの聖徳太子像が光明を放ち、上皇を王崎(現在のかほく市大崎)の浜に導き、上皇の命を助けたと伝えられています。その後3年間、上皇が滞在した地が現在の御門(みかど)で、広済寺がある領家の地名は、上皇の供奉(ぐぶ=お供)の住居があったことに由来します。
笠谷地区の吉倉区にある聖徳山光楽寺(しょうとくざんこうらくじ)にも、同様の聖徳太子にまつわる伝説が残っています。