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弘願寺

ページID:0006350 更新日:2025年2月26日更新 印刷ページ表示

津幡川左岸のおやど橋手前にある弘願寺(ぐがんじ=浄土真宗東本願寺派)は、一向一揆時代には津幡町笠谷地区の鳥越区にありました。1580(天正8)年に織田信長(おだ・のぶなが)勢の佐久間盛政(さくま・もりまさ)が能登の末森城攻略の途中、鳥越弘願寺を陣営にしようとしましたが断られたため、寺が焼き払われ、後にここ加賀爪に移されました。
かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、その当時、脇本陣的な役割を担っていました。加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん)御旅屋(おたや)にお泊まりになり、その家来たちは同寺院に泊まったそうです。1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)の際、同寺が昼食休憩所となりました。当時の御座所(おましどころ)は1880(明治13)年の火事で焼けてしまい、現在は残っていませんが、その記念碑が境内に建っています。
同寺院の境内から裏手の遊歩道に出ると、おやど橋や対岸の家並みが一望できます。また、付近には俳人河合見風(かわい・けんぷう)宅跡「長寿庵」や、商家「八尾屋(やつおや)」の古民家が残っています。
津幡町ではかつて、約400年の歴史を誇る八朔相撲(はっさくずもう)が行われていましたが、1969(昭和44)年にその幕を閉じました。この八朔相撲は、天正年間(1573〜1592年)から慶長年間(1596〜1615年)にかけて、近郷近在の祭礼などで盛んに行われていた草相撲が始まりといわれています。当時は旧暦8月1日に、同寺院や清水八幡神社の境内、津幡小学校の旧校庭に土俵を移しながら開催されていました。旧暦の八朔が採れる時期に開催されていたことから、こう呼ばれるようになったそうです。