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為広塚

ページID:0006346 更新日:2025年2月26日更新 印刷ページ表示

旧北陸道を見下ろす津幡城跡に建つ河合見風(かわい・けんぷう)句碑の隣に、為広(ためひろ)塚が建っています。為広塚は元々、津幡城跡の東麓にある清水八幡神社境内に隣接してありましたが、1963(昭和43)年に周囲の環境変化により現在地に移転されました。
為広塚は、入道前大納言贈一品冷泉(にゅうどうさきのだいなごん・ぞういっぽん・れいぜい)為広卿の塚です。為広は京都冷泉家(藤原道長の6男長家に始まり、平安時代末期から鎌倉時代の代表的歌人俊成、定家を先祖に持つ和歌の名門)5代為冨卿の長男として生まれ、義竹軒(ぎちくけん)と号し、定家流(ていかりゅう)の書で知られています。
当時、京都では細川氏が勢力を伸ばし、1508(永正5)年に将軍足利義澄(あしかが・よしずみ)が失脚すると、為広は出家し、晩年は懇意にしていた畠山氏(はたけやまし)の能登七尾城に身を寄せ、1526(大永6)年に77歳でその生涯を閉じました。
寛延の頃(1750年前後)、清水八幡神社のそばにあった広塚と呼ばれる場所を俳人河合見風らが調査、考証した結果、冷泉為広の墓であることが明らかになりました。それを子孫の為村(ためむら)が聞き、1765(明和2)年11月28日に、加賀八家(かがはっか)前田土佐守直躬(まえだ・とさのかみなおみ)や見風とともに石碑を建立しました。
当時の清水八幡宮(清水八幡神社)に隣接してあった塚のそばには、五層石塔や塔守屋敷があったと言われ、当時、里人らは塔屋敷、広塚などと呼び親しんでいたそうです。
◆1963(昭和38)年5月10日 津幡町文化財(史跡)指定
加賀八家:加賀藩の家老で、1686(貞享3)年、5代藩主前田綱紀の時、藩の職制改革の際に定められた。江戸時代を通じて世襲し、加賀藩の執政を務めた。