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津幡町と富山県小矢部市にまたがる「倶利伽羅峠」を越える旧北陸道は、源平合戦の「火牛の計(かぎゅうのけい)」に関わる史跡や加賀藩の参勤交代(さんきんこうたい)のための往還道など、その歴史的、文化的価値が評価されて、1995(平成7)年6月に国土交通省が進める「歴史国道」の全国12箇所の1つとして認定されました。1996(平成8)年11月には、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれています。
712年(和銅5)年に、越中から加賀へ通じる加越国境の砺波山(倶利伽羅山)の麓に、越の三関(越前・越中・越後)の1つである砺波関(となみのせき)が設けられました。746(天平18)年に越中の国守(こくしゅ)として赴任した万葉集の歌人、大伴家持(おおとものやかもち)は、この地で多くの歌を残しました。
加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠は、平安時代末期の1183(寿永2)年に源氏と平家が興亡の明暗を分けた倶利伽羅源平合戦の舞台となったところで、木曽義仲(きそ・よしなか)による「火牛の計」の作戦が『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に記されています。
江戸時代には、1635(寛永12)年の加賀藩3代藩主前田利常(まえだ・としつね)の時代から始まった参勤交代の街道として、1601年頃から道路の拡張や松並木、一里塚の設置など本格的な整備が始まり、竹橋(たけのはし)宿は参勤交代で栄えた宿場町でした。当時の交通路には東海道、中仙道、北陸道の3コースがありましたが、藩政全期を通しての参勤交代約200回のうち、東海道利用は9回、中仙道は3回で、残りは全て北陸道を利用したといわれています。
当時の街道の道幅は約3〜3間半(5.5〜6.4メートル)で、その両脇には「並松(なみまつ)」と呼ばれた松並木が植えられました。この「並松」は盛土の上に植えられ、盛土の外側の面には芝が敷かれていました。また、加賀藩は道路の管理をする道番人(みちばんにん)を1里(約4キロ)毎に2人ずつ置きました。
1878(明治11)年、明治天皇の北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)に合わせて勾配が緩やかな天田峠(あまだとうげ)に新道が開削され、1880(明治13)年にはこの新道が国道(現在県道)となりました。このため、倶利伽羅峠越えの街道は、車社会が著しい発展を遂げる以前に旧道となったおかげで、今も往時の街道風情が色濃く残されています。
津幡町竹橋から小矢部市桜町までの延長約12.8キロが、歴史国道「北陸道」として整備され、ハイキングコースとして親しまれています。道の駅「倶利伽羅源平の郷・竹橋口」から出発し、街道沿いに設置された「歴史国道」案内板に従って散策することができます。沿道の豊かな自然にふれ、名所や史跡を訪ねながら、いにしえから現代までの歴史を体験してみませんか?
毎年4月下旬には、倶利伽羅古戦場で源平合戦にあやかり、全長120メートル、直径12センチの大綱を、津幡町と小矢部市の参加者で引き合う歴史国道イベント「くりから夢街道 加賀vs越中おもしろ源平大綱合戦」が開催されます。大綱引き合戦後は、八重桜が咲き誇る歴史国道「北陸道」を、倶利伽羅山頂から武者行列とともに峠道を下ります。途中、龍ヶ峰(りゅうがみね)城址公園では団子やお茶のサービスがあり、観光ボランティアガイドによる史跡の説明もあります。
◆歴史国道「北陸道」沿道の見どころ
【津幡町側】
道の駅「倶利伽羅源平の郷・竹橋口」⇒宿駅「竹橋」⇒前坂権現⇒一騎討ち跡⇒龍ヶ峰城址公園⇒道番人屋敷跡⇒馬洗い場跡⇒子安地蔵堂⇒秀雅上人堂⇒不動ヶ池⇒手向神社⇒倶利迦羅不動寺⇒倶利伽羅権現石殿⇒倶利伽羅公園
【小矢部市側】
平為盛塚⇒源平供養塔⇒倶利伽羅小道⇒芭蕉塚⇒猿ヶ馬場(地獄谷)⇒源氏ヶ峰⇒砂坂⇒塔の橋⇒矢立⇒天池茶屋跡⇒中たるみの茶屋跡⇒巴塚・葵塚⇒砺波の関⇒埴生護国八幡宮⇒倶利伽羅源平の里・埴生口
◆2009(平成21)年4月28日 町道竹橋倶利伽羅線「北国街道倶利伽羅峠道」が石川県文化財(史跡)指定