清水八幡神社

為広塚があったとされる「清水八幡神社」

為広塚があったとされる「清水八幡神社」

 津幡城跡の東方裏手に、歌人冷泉為広(れいぜい・ためひろ)の墓があったとされる清水八幡神社があります。古くは清水八幡宮と称し、旧北陸道に面した参道入口に赤戸室石(あかとむろいし)の鳥居が建っていましたが、パピィ1通り(津幡中央銀座商店街)の道路拡幅に伴い、鳥居は同神社境内の入口に移されました。鳥居と並んで建っていた社号標は、今でも旧北陸道沿いに建っています。参道入口付近には、昭和時代までお茶屋が残っていましたが、今は民家の格子戸だけが当時の面影を留めています。
 為広は京都冷泉家(和歌の名門)5代為冨卿の長男として生まれ、義竹軒(ぎちくけん)と号し、定家流(ていかりゅう)の書に優れていました。晩年は懇意にしていた畠山氏(はたけやまし)の能登七尾城に身を寄せ、1526(大永6)年に77歳で客死しました。七尾で亡くなった為広の塚が、なぜ津幡の清水八幡神社にあるかは、未だに謎です。
 寛延の頃(1750年前後)、清水八幡宮のそばにあった広塚と呼ばれる場所を津幡の俳人河合見風(かわい・けんぷう)らが調査、考証した結果、為広の墓であることが明らかになりました。それを為広の9代後の子孫為村(ためむら)が聞き、1765(明和2)年11月28日に、見風や加賀八家(かがはっか)前田土佐守直躬(まえだ・とさのかみなおみ)とともに石碑を建立しました。
 当時の清水八幡宮(清水八幡神社)の傍には、同神社を守るための別当寺(べっとうじ)の宝蔵院(ほうぞういん)という寺がありました。1766(明和3)年に為村が為広の石碑建立への謝意を表し、宝蔵院に和歌を納めました。「かはらしな八幡の宮の 石清水こゝも清水の 清きみつかき」は、津幡の清水八幡宮を京都の石清水八幡宮にかけて詠んだ和歌とされています。為村の直筆と思われる色紙は現在、同神社に残されています。
 和歌が納められた別当寺の宝蔵院には、社僧宝蔵寺にまつわる伝説が残っています。
 末森の戦いのために加賀藩初代藩主前田利家が津幡城へ入ると、城主前田秀継が利家に向かって「この地に良卜(りょうぼく)がいるので、試しに呼んで、出兵するのが良いか、悪いか占ってみてはどうでしょうか」とすすめました。この時、白髪混じりの山伏(やまぶし)が利家の前に出て、袖裏(そでうら)からある本を出して占おうとしました。しかし、利家の出兵の決意が固い様子を見てとって、すぐに本を収めて「進みて利あり」と答えました。利家は笑って「真に良卜である」とほめ称えました。(言い伝えでは、この山伏は清水八幡神社の社僧宝蔵寺だといわれています。)
 利家は戦いに大勝して帰ると、すぐに宝蔵寺を呼び褒賞をとらせようとしましたが、宝蔵寺は利家の好意を断るように「はばかりさま」とだけ答えました。利家はその言葉がおごり高ぶっているのを嫌って「しからばやめよ」といって、何も与えなかったそうです(津幡地区の伝説「良卜」の話より引用)。
赤戸室石:金沢市戸室地区で産出する石で、柔らかくて細工し易く、神社の鳥居や石灯篭などに多く用いられたが、現在はほとんど産出しない。
別当寺:神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと。
卜:占い。
山伏:野や山を歩き、仏教の修行をするお坊さん。

所在地 〒929-0326 石川県河北郡津幡町字清水リ115
お問い合わせ先 清水八幡神社
電話番号 076-289-4173
ホームページ
アクセス IR津幡駅から「津幡駅前」交差点を右折し、県道59号線に入ります。そのまま直進し、白鳥橋を過ぎると、「清水南」交差点に出ます。そこを左折すると、左手に「清水八幡神社」の案内版が見えます。



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