津幡城跡

加越国境における軍事的拠点だった「津幡城跡」

加越国境における軍事的拠点だった「津幡城跡」

 津幡城跡は津幡川の右岸、かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道を見下ろす小高い丘陵地にあります。ここは津幡小学校旧校舎の敷地内だったため、残念ながら遺跡はほとんど残っていませんが、標高15メートルの大西山から周囲を見渡すと、ここが津幡城であった面影がわずかながら伝わってきます。同敷地内には、為広(ためひろ)塚と河合見風(かわい・けんぷう)句碑が建ち、裏手には為広塚とゆかりのある清水八幡神社もあります。
 1183(寿永2)年の源平合戦の時、倶利伽羅峠の一戦を前に、平維盛(たいらのこれもり)配下の平家軍が津幡に陣を敷き、街道を見下すこの地(大西山)に砦を築いたのが始まりとされています。
 その後、1190(建久元)年頃、井家庄(いのうえのしょう)の地頭(じとう)都幡(津幡)小三郎隆家(つばた・こさぶろ・たかいえ)が居城したと伝えられています。
 1576(天正4)年には、上杉謙信(うえすぎ・けんしん)が越中から入って津幡に陣を取り、七尾城を攻略するための拠点にしたと伝えられています。
 1583(天正11)年、加賀藩初代藩主前田利家(まえだ・としいえ)が支配するようになり、越中に対する防備として城を築き、弟の前田秀継(まえだ・ひでつぐ)に守らせました。翌1584(天正12)年、佐々成政(さっさ・なりまさ)が末森城を攻撃した時、利家は秀継と末森城救援のための軍議をこの津幡城で開いています。
 後に、利家が加賀・能登・越中三国を支配するようになると、津幡城は加越国境における軍事的拠点としての意義がなくなり廃城となりました。
◆1964(昭和39)年5月7日 津幡町文化財(史跡)指定
地頭:鎌倉・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。

所在地 〒929-0326 石川県河北郡津幡町字清水
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アクセス IR津幡駅から「津幡駅前」交差点を曲がらずに直進し、次の「南中条」交差点を右折し、旧北陸道の町道に入ります。そのまま直進し、津幡川に架かる「おやど橋」を渡ると、「四ツ角」交差点に出ます。そこを直進し、正面奥に見える坂道を上ると、左側に「津幡城跡」の案内板があり、その前に駐車場があります。



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